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集団的自衛権行使に関する法案について-憲法学の立場から-

 

髙𣘺洋 (法務研究科教授 憲法学) 

 

 現在参議院で審議中の集団的自衛権関連の法律案は、一つは自衛隊法や周辺事態法、武力攻撃事態法など、既存の10本の法律の改正案を一つにまとめたもので、もう一つが国際平和共同対処事態協力法案とでも呼ぶべきものです。要するに、これらは、これまで自衛隊ができないとされてきたことをやれるようにしようという法案です。その主要なものは、一つは国際的な紛争地域での「後方支援」(兵站)です。これはイラク特措法などで規定されていた「非戦闘地域」という概念をはずし、「現に戦闘を行っている現場」以外では同盟する他国軍隊への兵站を行えるということになっています。「現に戦闘を行っている現場」以外といっても、いつ攻撃されるかもわからない現場での補給活動を行う、という内容です。もう一つは米軍部隊の警護活動です。アメリカ軍の武器等を職務上警護している際に人や武器の防護のために必要があれば、武器の使用ができるというものです。都合よく米軍が攻撃される現場に居合わせる、などというものではなく、米軍との日常的な共同行動が想定されているといっていいでしょう。さらに、国際平和対処事態(PKOに限らず、国際的な軍事力の行使を広く指しているように思われます)における支援活動(たとえばアフガニスタンにおける対タリバーンを念頭に置いた支援活動、他国軍隊等の捜索救助活動など)も戦闘行為に巻き込まれる、つまり自衛隊が武力行使をする、あるいはせざるを得ない可能性が高いものです。

 これらの活動は、従来集団的自衛権の行使とされて、日本国憲法では禁止された、違憲の行為とされてきました。1972年の政府見解などにも示されているところです。集団的自衛権は国際法上も認められていると政府は述べていますが、国連憲章は「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」としています。集団的自衛権が国際的に認められているといっても、暫定的なものです。もちろん、現在のように5常任理事国の利害が一致しない状況では安保理がなかなか動かないのは事実ですが、理念として集団的自衛権が普遍的なものとしてあるわけではない、ということが重要だと思います。

 政府はこの集団的自衛権の行使が違憲ではないという見解として最高裁判所の砂川事件判決を持ち出しました。日米安全保障条約が合憲かどうかをめぐって争われた事件ですが、1959年12月に出された判決ですから、日本自身が集団的自衛権を行使することが違憲かどうかなど、全く問題とならない時代の話ですし、最高裁もそれには触れていません。かなり無理筋の主張で、司法試験の答案なら不良答案というところではないでしょうか。

 日本国憲法は、前文で平和主義と国際協調主義を明らかにし、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とともに、第9条で戦争の放棄と戦力の不保持を明らかにしました。その平和主義は、平和のために戦争に参加するという「積極的平和主義」ではなく、また一部の国だけとの同盟を尊ぶ「国際協調主義」でもなく、まさに普遍的な平和をめざすものです。こうした考え方と、今安倍政権が成立を目指している法案は、逆向きのベクトルを持っています。憲法学の立場からは、とうてい合憲というわけにいかないものだと考えています。

 

 

 

 

 

戦争の準備をすれば、戦争に近づく

 

飯野賢一(法学部教授 憲法学)

 

 「平和を望むなら、戦争を準備せよ」というラテン語の格言があります。これは、攻められたときに反撃できるように準備しておくことが戦争を防ぐことにつながるということを意味しています。「積極的平和主義」(軍事力を積極的に利用する平和主義)を掲げる安倍政権の主張も、この格言に近いものと言えるでしょう。

 しかし、安倍政権がやろうとしていることによって、本当に平和がもたらされるかは疑問です。現在、国会で審議されている安全保障関連法案で問題となっている集団的自衛権や外国軍隊への後方支援は、日本が戦争に巻き込まれる危険性を高めるものと考えざるをえないからです。

 まず、集団的自衛権に関してですが、集団的自衛権の本質は他国の防衛であり、個別的自衛権が自国の防衛であるのとは本質的に違います。集団的自衛権を認めれば、自国が攻撃されてもいないのに戦争をすることになりますから、日本が戦争に巻き込まれる可能性はその分、高くなるわけです。また、憲法論としても、集団的自衛権は、従来の政府解釈では認められないとされてきたものであり、武力行使が禁止され、交戦権も認められていない憲法9条の下では、当然、許されないはずです。それを内閣が解釈で変更し、集団的自衛権の行使を認めた点は問題です。安全保障という国家の命運にかかわる方針を一内閣の一存で自由に変更できるのであれば、憲法のどの条項も同じように解釈で変更できることになり、〈憲法による国家権力の拘束〉という立憲主義の本質が破壊されてしまうからです。

 つぎに、外国軍隊への後方支援についてですが、この後方支援が世界中どこでも可能となれば、これまた戦争に巻き込まれる可能性は格段に高まります。戦っている相手が補給路を断つのは当然の戦術ですから、自衛隊のリスクも恐ろしいほど高まります。憲法論としても、弾薬、燃料、食料などの提供を行う後方支援は、最前線で殺し合いをしていないだけで戦争に参加する行為であり、9条の下でも許されないはずです。

 結局のところ、安倍政権がやろうとしていること、すなわち、軍事力に頼り抑止力を高めることで安全を確保しようとすることは、戦争に巻き込まれる危険性や自衛隊のリスクを高めるものであり、決して平和のためにならないというジレンマに陥っているのです。「戦争の準備をすれば、戦争に近づく」という言葉の方が、冒頭に掲げた格言よりも現実を正確に表しているように思われます。

 戦後70年間、日本が平和主義を掲げて戦闘を行ってこなかったという事実は、これからの国際社会での日本の役割を考えていくうえで貴重なものだと思います。これを捨ててまで、何が得られるのか、私は懐疑的にならざるを得ません。外交により周辺諸国との緊張関係を取り除く努力や、国内外の平和運動と連携して平和的な国際世論を高めることや、紛争の根本的な原因となる貧困や差別を取り除くことなど、優先してやるべきことは他にたくさんあるはずです。平和を真剣に望むのであれば、今回の法案は廃案にして、安全保障政策を根底から見直すべきだと考えます。

 

 

 

 

 

「安保関連法案」の議論をめぐって

 

仲 哲生(法学部教授 憲法学)

 

 いわゆる「安保関連法案」は、基本的には、二つの点で大きな問題を含んでいます。一つは、手続的な側面で、立憲主義や国民主権といった基本原理に違反していることです。具体的には、昨年7月1日の閣議決定による集団的自衛権の容認は、国会の審議もなく、まともな議論をした様子は全くありません。そもそも、閣議とは、誤解を恐れず言えば、首相を支持する「お仲間」の集まりですから、民主的な討議を重ねて、意思決定するところではありません。そして、この間の衆議院、参議院の議論を見ても、国民との対話を重ね慎重に審議する姿勢が見えないことです、「この夏までの成立」発言や、何時間討議したのかなど、民主主義を理解していません。

 二つ目は、当然のことながら憲法9条の平和主義、前文の平和的生存権を無視していることです。「存立危機状態」という概念を持ち出し、歯止めのない自衛権行使を認め(自衛権とは関係のない砂川事件最高裁判決まで持ち出す)、極端にいえば、周辺の枠を超え、地球の裏側での行使も容認されます。「後方支援」の名の下で、広い範囲の戦争協力が行われます。さらに、自衛権行使として、「武力攻撃に至らない侵害」、「離島等の周辺地域に対する侵害」への対処、「自衛隊による米軍の武器等の防護」など際限もなく広げています。

 この間の審議の経過の中で、政府の答弁は、しばしば同じ答弁を繰り返す、「総合的に判断」、「個別具体的に検討」など、はぐらかしの答弁や答弁内容の変更が続いています。また、参議院での審議に移って、政府は、衆議院での審議の反省に基づいて、中国、北朝鮮の脅威の強調による、「安保環境の変化論」や、「戦争の抑止論」などの政治的な理由を主張してきています。このことは、憲法論によって法案の正当性を論ずることを、ある意味では放棄したものです。

 以上のように、「法案」を容認することは、到底できないことです。また、法案の必要性の根拠としてしばしばあげられている「抑止力」は、相手国の民衆に対する「威嚇」、「恫喝」を含む行為であり、小沢隆一先生は、「相手国の民衆の命を人質にすることの非人間性」を指摘しています。要するに、他国民であれ、自国民であれ、民衆を戦争に巻き込む法案だということです。ここに、この問題を考える基本的な視点があります。憲法前文にある、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」を基礎に、戦争と平和の問題を考え、行動することこそ、今、求められています。

 

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